人とは違う幸せ、障害を乗り越えた今
やさしさはその分傷をおった裏返し
人にやさしくなるには、その分いっぱいきずついた裏返しだと思う。
前の記事でも書いたが私は障害児だった。
知能が高すぎるという障害児である。
知能指数を昔は測定したからで本当にそれ以後苦労した。
村をでてからは、孤独にさいなまれた。
秀才は我慢強い
秀才君は、我慢強いのである。
進学校の高校に入学したとき、東大を第一候補でいきましょうとか三者面談でいわれた。
ばかいえ、おまえに進路などきめられたくないと担任の先生にたいしてまずおもった。
授業など小学校よりつまらないから、ふけていたので高校でもその癖はぬけなかった。
体がうまれつき弱いこともあったが、しっかり90日毎年休み、当然高校の授業内容わからなくなった。
でも東大の理科3類の模擬試験にはまだ合格するレベルだったこともあり、ふけることにいそしんだ。
でもほかの学生みたいに不良にならずというよりそういう連中のこともさめてみていた。子供くさいと。
家にこもりひたすら大好きな洋楽きいていた。
不登校の走り?であろうか?
担任が学校にこいと迎えにきた。
担任に先生、木製の鉛筆数千年たったらこの世からきえますと、なのに同級生はなんのため官僚めざし、毎日勉強しまくるのか?とか問答くりかえした。
私のほかにもクラスに、にたような連中が数人いた。進学校にはへんな奴等が必ずいる。
とうとう担任は次の年には、担任など二度としないとにげだした。
先生、本当にごめんなさい。といまさらあやまってもしかたないけど。
不登校の同級生は転校したりした。
ぶーぶーいいいながら高校3年までなんとか、あがった。
秀才には、さすがに成績でかなわなくなってきていた。
人生きめる担任に、高校3年の時にめぐりあった。
おまえが家で聞いている音楽を録音してこいというので、アバを録音して先生にわたした。
そうして、先生は、我々おちこぼれの心をつかんでいった。
先生はついに、われわれおちこぼれ組をクラスにもどした。
ふてくされていた我々を卒業させ、私大なら合格するだろうと医学部受験へと導いた。
我慢ということが私にはできない。
毎日、座って授業きくとか、毎日座って同じ仕事くりかえすとかが全くできない。
我慢が全くできない。
好きなことしかシャッター機能が働かない
受験テクニックなど大嫌いなのですきな勉強しかできない。
好きなことしか頭がうけつけない。
たとえば取り扱い説明書を覚えるのは苦痛なので、頭のシャッターが動かない。
嫌いなことは一切頭がうけつけない。
不便このうえない頭である。
人との思い出も情景として、絵のように頭に覚えている。
だれがこういう動作しているときこんな言葉をいったとかである。
これがつらいことだといつまでも頭にのこり、精神的につらいことに若いころはなった。
いまでもつらいできごとは、映像として残っているので困ることになる。
何度も書くが、やはり障害である。
障害ゆえ、いっぱいつらいことが人生にあったので、相手のつらい気持ちがすぐわかる。
わかいころは、つらかったことも、今は、患者様の診療につながっている。
患者様の診療は大好きなので何時間してもあきない。
これがきらいなことをやれといわれたらつづかない。
結論
やはりくりかえし、くりかえしかくが、障害である。
人とちがう、この年になったらそれが克服できてきた。
友達たちは、一緒にでかけるとき、どこそこへ何時にいくからと、メモがわりに私をつかう。
笑って私は、それに今は答えることができる。
昔ならおちこむことが今は笑ってかえせる。
人とちがって当たり前である。
大好きな患者さまの診療にむすびつくならそれでよいし、ここまで生き残ってきたから、社会のお役にたとうと思う。
ギフテッドのギフトは神や天からあたえられた才能という意味もあるそうだ。
それを人にやくだてることが私ののこされた人生で義務だと思う