東京オリンピック(昭和)の影で大都会に捨てられた人々、イダテンだけでなく❗️
私は介護保険ができる前より訪問診療している。毎年のべ六千人 外来でみているのでいままで、何人みたかは自分でもわからない。すべての患者のかたは申し訳ないが覚えていない。
しかし20年まえのできごとは一生忘れない。都心のあるクリニックに勤務していたときに行政よりある地域のかたたちを診察してきてほしいといわれた。
都会のすみに忘れられた人たち
バラックのアパートにいわゆるホームレスにちかいかたがたが寝たきりでいるとのこと。
汚いかっこうでいってほしいと行政よりいわれた。
医師も男性がいたし、ナースも男性がいた。
全員なにがおこるかわからないといわれ、しり込した
。しかし、あるおばさんナースが先生いきましょう。と私にいいしぶしぶいくことになった。ジーパンでいった。
ついたらびっくりである。都心にこんな地域あったのかとめをうたがった。バラック家が何軒もあった。部屋に入ろうとドアをあけようとしたら開かない。ドアがこわれていた。
ナースが窓から入りましょうというので窓からはいった。
3畳くらいしかないところにお年寄りの男性が転がっていた。
寝てたのではなく、申し訳ないが転がっていた。
酒びんとコーラ瓶がころがり尿匂も便匂もした。畳に当時我々がふん転がしといっていた。
自分の便を畳のへりにすりこんでいた。
認知のかたがご自分の便をたたみのへりにすりこむことを当時の我々はふんころがしとなぜか呼んでいた。食べものはくさり、こばえもかなりとんでいた。
血圧や、脈とかみて、診察して、脱水ひどく病院へはこぼうとしたがお名前がわからない。
バラックがいくつかありみなさん同じ状態であった。
たった一人バラックのそとにたってた住人に話をきいた。
東北から東京オリンピックのときに出稼ぎにきたと話していた。
若いかたは知らないがNHKイダテンでえがかれている最初の東京オリンピックである。本名などみんなわからないよ。と。おれたちみんな死ぬだけだと。
行政があとからきた。胸がつまり、その時の光景がめからはなれない。
在宅医療をやるかどうかもその時まで真剣に考えていなかった。
それから在宅医療をはじめて本当に多くのかたの人生をみてきた。
普通病院のなかにいると知らないでいることを多くまなんだ。
その時のナースは、随分おばあさんになったろう。地位とかは興味なさそうだったが使命感はあり尊敬している。街のすみで地域医療やりみんなに慕われているのだろう。
医療従事者は、色んな人生があるということを知らないといけないと考える。そのひとの立場にならないとおしつけの医療になってしまう。
医師になるひとは、私も含めて世間知らずである。長い研修期間があるので、若い医師を世間知らずにしてしまう。
多くの人生を垣間見た在宅医療
在宅医療をしてよかったのは、多くのかたの人生をかいまみせていただき、社会勉強させていただいた。若い医師は、地域にでて、世間を勉強しないといけない。
がサイエンスつまり、いろんな手技を患者にやることに喜びを感じる時期が若いときにある。
私は若いとき大学にいたので、救急に交通事故にあわれたかたとかきたら、嬉々として処置などした。
自分は医師なんだとやりがいも感じた。
サイエンスも医療には大事である。が高齢者や癌の末期のかたには、サイエンスよりケア、つまり心のケアが必要な時がおおい。
リウマチで体が不自由になりサイエンスはできなくなったから、それは若い先生にお願いしている。
ケアなら一線より脱落した私にもできる。
リウマチになり、病のかたのお気持ちがよくわかるようになった。そのことがケアの医療につながればとおもう。
結論
私がやっている総合診療はアートである。
ある有名な総合診療医がダ・ヴィンチのカルテという本をだされているほど、総合診察医はアートのような美しい診断を模索している。
患者に余計な検査をせず的確な診断するということである。私もバッハの調べのように、診察できたらとおもうがまだまだである。
また、終末医療は、サイエンスよりケアを大事にである。
私が尊敬してやまない私の師匠といえるかたの受け売りであるが。今日もケアの医療できるようにと願いながら仕事している。