riumatiのブログ

高齢者医療専門医の女医がリウマチになり体不自由になり犬と生活しています、医療、生活など病にかんすることから医療界についてなど発信しています

鉄は熱いうちに打てて、錆びたら打てないの巻⁉

ブログを公開した理由

超高齢者とくに90歳以上のかたにおだやかな日々をおくっていただき眠るようになくなってほしい。

 

寝たきりではなく、普通の暮らしをして、なくなってほしい。

 

リウマチになりかなり強い薬をつかい症状は改善しているが、寿命はそのせいで短いと覚悟したので高齢者のお役にたてればと思ったこと。

 

非常に多くの指導医におしえていただいたこと

私を時にはしかり、怒り、内科医として一人前に育てて、くださった多くの恩師に感謝しているからである。

 

恩師より基礎をきちんと若いうちに学んでいないと年をとると困るといわれた。

 

若いうちに血の涙をながせといわれた。これは陣内孝則さん(俳優)もお母さまよりいわれたそうである。

 

内科医は、一人ではけっして一人前になれない。

 

チーム医療を白血病の骨髄移植チームで医師のかけだしのころやり、チーム医療の大事さを学んだ。

 

在宅医療はチーム医療であり、医師だけでは絶対できない。

 

この年になると誰も教えてくれない。若いころしか教えてくれない。

いろんな先輩がたに怒られ、叱られた。

 

腎臓内科の研修医のころの話

時には手術室で足をけられた。

 

内科医も開放性腎生検で手術室にはいることがあった。

 

私の足をけり、怒鳴ったのは、以前の記事でもかいたが今や世界的有名な腎臓専門医のかたである。

 

私がまともにいわゆるこうひきもできなかったからである。

 

こうひきとは術野をみやすくするために器具でひろげることである。

 

10年前、当時の元上司と事務責任者がその先生に面会にいったおり、あの子を頼むと頭さげられたときき、恩師に感謝している。

 

叱りとばされたときは、隠れて小部屋で泣いてた。

 

私はその先生になんとおそれおおい、採血、点滴までならった。

 

本当に点滴がへたでよく患者に怒られていたからである。

 

その先生はなんとへたくその私のために、みるにみかねて看護学校から採血の手技を学ぶための人形を借りてきた。

 

自分の患者様だけでなく、当時の医局長の部下の患者様の点滴まで腎臓内科の研修がおわったあともやらせていただいた。

 

ついにはその医局長まで、お前の方法は違う、どんくさいとか、叱っていただいた。

 

呼吸器内科の研修のころの話

 

呼吸器内科を研修したころは、指導医の女性医師に指導うけた。

 

昔はCTなどないので断層写真をとっていた。

 

その断層写真をうえから順に正確にならべるまでこの部屋をでてはいけませんといわれとじこめられた。

 

胸部を上からきって当時は撮影していたので、読影するためにきちんと上からならべなくてはいけない。

 

糖尿病内科、(腎臓内科と当時は一緒)の研修のころの話

 

ある先生には、カルテ、当時は紙カルテだったが、きちんとかけるまで静かで勉強できる、特別病棟からでてはいけませんといわれた。

 

ひと月、特別病棟で婦長のおばさまの横で座らされ、カルテを書くことをトレーニングされた。

 

カルテをかけない内科医は頭のなかで整理できていない。

 

カルテをかけない医師は、内科医ではありませんと、特別病棟のおっかない婦長の横にすわらされた。

英語でかかれた医学書を読むようにもいわれ、一日やっていた。

休憩するとおっかない婦長が先生、どこにいくのですかといわれさぼることできず、これもしんどい研修だった

 

しかし今、頭を整理して診察することが非常に役立っている。

 

 

血液、膠原病内科の研修のころの話

 

膠原病のある患者をみたときにこうしたらどうかという治療を指導医とはなすうち論文にかいたらと言われ、研修医の身の上なのに、リウマチ学会の世界大会があり発表することになった。

 

研修医であるのでなにもわからない。

 

その指導医の女性医師がおにぎりつくってくれ、横でこう書くのよといっていくれたのを覚えている。

 

英語の雑誌にもその先生が先に英訳して、だしてくださっていた。

 

その先生のすごいところは、私を筆頭者としてくれ、ご自分は共著として名前をならべられたことである。

 

先生が筆頭者でよい論文であるのにである。

筆頭者がその論文の功績者になる。私みたいな未熟者に筆頭者などおそれおおい。

人間として尊敬できるかたの一人である。

 

論文みたら、ちゃっかり、当時の教授と助教授が共同研究者になっていた。

 

昔より出世するかたはぬけめない。

 

女二人で書いていた当時は、だれも興味をもたなかったのにである。

 

研修した大学が新しくできたばかりで研修医をなんでも広くみれる医師を育てようとの意気込みがあった。

地域の開業医の師弟がおおかったから、地域にねざそうとしていた。

 

救急の研修のころの話

 

救急は、大学なのですごい経験をさせてもらった。

 

指導医にここでも怒鳴られ、一生に一度しかみれない症例だから寝ないで研修しろといわれた。

 

今考えたらそのとうりであった。

 

心臓マッサージも開胸つまり胸をあけて直接心臓をもむことは、その後一度もしていない。

 

自殺をはかり全身やけどおったかた、全身やけただれたかたもはじめてみた。

 

高速道路の玉突き事故などよくあり、壮絶な現場であった。

 

ほかにも小児科の未熟児病棟、小児科、精神科、ついにはなぜか病理まで研修した。あと循環器内科やほかの内科もすべて研修した。

スーパーローテートを40年ちかく前にやっていたのは、本当に数少なかった。

総合診療医、在宅医の基礎になっている。

いまは厚労省がやれといってるが。

 

 

結論

 

肉体はボロボロになったが、一生の貯金になるくらい今では、簡単におめにかかることもできない、そうそうたる日本の名医になられたかたちに鍛えられた。

 

今の私があるのはこういう恩師のかたがたのおかげである。

 

医師生命が私もそう長くないと自覚したので恩師たちが教えてくださったことを正しくつたえたい。

 

苦しむとくに超高齢者を救いたいとの一念で書いている。

 

女ごときがとかいろいろ周囲の中傷は覚悟している。

 

医師は社会貢献するための職業であると考えているからである。
若いうちには苦労しないといけないとは古い人間のいうことであるが、内科医、それも総合診療をやるには、基礎を学ぶ必要があると考える。

 

鉄はさびてからは打てないからである。