riumatiのブログ

高齢者医療専門医の女医がリウマチになり体不自由になり犬と生活しています、医療、生活など病にかんすることから医療界についてなど発信しています

タイムマシーンで昭和の医療へ‼️

タンがつまりなくなった祖母

タンがつまりやすい高齢者が多い。吐き出す力がおちてきているのである。

 

私の祖母は、喘息発作おこしタンがつまりなくなった。

 

祖父は医師でそばにいたが、どんな処置を祖父がしたか、わからない。

 

家族はだれも家にいなかった。

 

家でなくなるのは当たり前だった。

 

入院するなどだれも考えてない時代だった。

 

専門がない祖父

祖父は、昔の医師でお産から、内科、外科、なんでもできた。私の歯もぬいていた。

 

総合診療医といまはごたいそうな名前ついたが昔はなんでもできるのは当たり前だった。

 

祖父が祖母にどんな処置したかはわからない。

 

いま思うと祖父にもっと色々医療を教えてもらえばよかった。

 

お産で逆子もとりあげていた。

 

村人の往診にもいっていた。

 

村の人がよく野菜とかお礼にもってきてた。

 

だから、なにが専門かはよくわからない。最後は体が過労せず、楽だからと肛門科していた。

 

なになにの専門ですというのは戦後できたようだ。

在宅医療ではなく往診

在宅医療もごたいそうな名前が、これまたついた。

 

往診は当たり前で。電話ない時代、先生はやくきてと呼びに家族がきたような記憶ある。

 

往診の途中あぜみちにおち、路線バスの運転手がひきあげてくれたと話していた。

 

往診には、カッコつけてハーレーにのっていってたようで、昭和初期の写真みたことある。

父が肛門科をついだ。

 

聴診器がつかえない半端者の医師と父は自分のことをいっていた。

 

なんでもできる祖父はスーパーマンみたいだったが60歳になったら医師をやめてしまい趣味にいきた。二度と患者をみることはなかった。

 

 父は祖父がなんと手作りした肛門鏡を大事につかっていて、それがこわれたら開業閉じるといっていた。その父もなくなり診療所は長い歴史の幕をとじた。

 

村に帰ろうと数年前かえったが村は街になりあちこちにクリニックがのきをならべていた。

 

村人もみんな、年をとり、やっとお嬢さんおかえりなさいというだけで精一杯であった。新しい住民がかなりいた。寂しかったが診療所再開はあきらめた。

そんな環境で育った。

 

いっぱい検査して、いっぱい薬もらう高齢者

都会にきて一番驚いたのが、病院好きな人が多いということである。

 

あちこちの科目をかかり、薬いっぱいもらいということが違和感が非常にある。

 

私は都会で研修医して医師になったが、小さい頃にみについた習慣はどうも消えない。

 

なぜ、高齢者はあちこちの科目をかかりたくさん薬もらうのか?違和感がある。

 

人の体はそうかわっていないのに。

 

結論

 

単純に、あんなに検査、薬ずけでへんなことに体はならないのだろうか?素朴な疑問である。

 

昔のごとく、シンブルにかかりつけ医も一人、その先生から病ひどくなったら病院の専門医へがシンブルで簡単だと考える。

 

この考えかたが、周囲の人でわからないことがあり摩擦が、おきる。

 

いっぱい管をつけられる医療と昭和の医療とはまったく違う。

 

村の医療が私の医療の原点である。

 

シンブルな昭和の医療である。